自灯明・法灯明 2012皐月

 モノゴトを判断するときにそれは「正しいか!?もしくは、誤っているか!?」ということは、往々にしてその中心的な論点となる。しかしながら、その「判断基準をどこに置くか!?」ということについては、熱心に語られない。
 
 本来は「判断基準」についてのみ論じればよく「正誤」等はどうでもいいことである。といえば些か乱暴に聞こえるが「判断基準」が明確であれば改めて「正誤」に関して論じる是非もないということである。

 一見すると「そんなことは当たり前だ!」と思われるだろうが、判断基準の置き場所を間違えるから人は悩む。例えば「判断基準」を「他人の目」に置くとしよう。すると「褒められるや、認められる」といった結果は正しいとされるが、それ以外は誤りとされてしまう。

 しかし、自らの営みが本当にそれだけのことで判断される価値しかないのかといえば、そうではない「他人の目」が見てないところで「努力をした自分」や「怠けた自分」というものは必ず存在する。

 それは「他人の目」には判断されない。しかし、確実にそういった自分の存在を自分だけは知っている。だからこそ認めてもらえないという「不満」や、見られているところでだけ頑張ればいいという「欺瞞」が生まれる。これは人生を不幸にする種となる。

 つまり「判断基準」とは、他人の評価にではなく「自らの信念」に置くことが正しい。それは例え99人が誤りだといっても自分だけは正しいと信じてその道を歩いていくということである。

 しかし、決して自分勝手に生きるという意味ではない。そこには大前提がある。それは「自らの信念」が自分と恋人、家族や親友といった親しいモノたちの幸せを願い、調和を実現するという気概と覚悟に立脚しているのかどうかということだ。別の言い方をすれば「その信念は真理に合致しているか!?」という意味である。

 人が100人居れば100通りの判断基準があり、正誤がある。その全てに合わせることは「苦痛」だ。そう、人生で最も不幸なことは「他人の評価を判断基準にすることにほかならない」
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by alchimista01 | 2012-05-14 23:07 | 一思案

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